私が、芸術祭に関わるようになったワケ

2016.09.03

シアターキノ代表で、今回の芸術祭バンドメンバーに入れていただいていいます中島洋です。前回のDaily SIAFでは、担当する芸術祭CM映像制作ワークショップ参加者募集の説明会のお知らせが緊急でした(説明会に参加されなかった方も応募できますので、関心のある方はこちらをご覧くださいhttps://www.icc-jp.com/news/f4fb1t0000000o5m.html)ので、今回は自己紹介的に「私が芸術祭に関わるようになったワケ」を、書いてみます。私が表現に関わってきた45年間の自己史にもなるので、長長文になります(笑)が、もしお時間がありましたら、お読みください。

私は、下関で生まれ、3歳から神戸で育ち、高校が山岳部だったので、北大の山岳部にあこがれて運よく合格して1968年に北大に入学しましたが、その6月に父が46歳ですい臓がんで亡くなり、まったく財産を残していなかったので、そのまま大学に残るなら、仕送り0で自活してくれと母に言われました。母も趣味だった洋裁で生計を立て中学入ったばかりの妹を育てないといけなくなり、当然のことで、私は9月から札幌へもどり、お金のかかる山岳部を諦めましたが、アルバイトで生計全てを立てるのは大変で、極貧生活になりました。授業も皆から遅れ、出席も足りず、そのまま留年になり、奨学金も打ち切りでさらにバイトという悪循環で、そのころの私は「世界なんてクソだ!」とめちゃすさんでいて、いつ悪い道へ行ってもおかしくない状況でした。しかし、逆にそれまでの真面目な健康優良児だった私が、その状況のおかけでジャズやロックに夢中になり、そして映像と出会い、「表現」という自分の居場所をやっと見つけることができたのでした。

大学に行っても授業ではなく、一年遅れで入った映画研究会の部室で、そこが自分の居場所でした。映画やその仲間に救われていました。そこで、映像の自主製作や、自主上映にのめりこむことになるのですが、当時は、ビデオもネットもない時代で、映画は映画館でしか見ることができないものでしたので、東京でやってる映画を見たいのでと、当時狸小路のあった映画館に上映してもらえませんかとお願いに行ったら、「そんなんで客はこねえだろ」とけんもほろろに断られました。さてどうするか、青函連絡船いれて丸一日かけて東京まで見に行くなんてそんなお金もありません。では諦めるのか、そこに実は北大の学生会館クラーク会館講堂に35ミリの映写機があることがわかり、そこで映画フィルムを借りて上映すれば見れるのではないかと気づきます。それから本当に実現するまでには、約一年近くかかるのですが、JRゴダールの作品を初めて自主上映することができました。

katteni

「見れないなら、自分たちの手で上映すればいいのだ」「ないものは、自分たちで創ればいいのだ」という、今の私の原点になるものでした。

それから、当然ながら紆余曲折はたくさんありましたが、24歳で友人たちと「エルフィンランド」という飲み屋をはじめ、その二階の6畳間で映像の上映、ひとり芝居、アコースティックなライブなどをはじめ、その小さな飲み屋は、ミュージシャンやアーティスト、役者を目指すなど、表現の卵たちのたまり場になっていきました。その出会いが、私の表現への関心を広げ、様々の分野の人達と交流が始まるとともに、当時やっと増え始めていた音楽系の飲み屋や喫茶店と一緒になって、コンサートなども開催するようになり、「場」の持つ力を感じるようになっていました。

エルフィンランド

1982年、12名のメンバーがお金を少しづつ持ち寄って、今や伝説といわれる初めてのフリースペース「駅裏8号倉庫」をみんなで始めました。札幌軟石の石造倉庫で、あと一年半で壊す予定なので、それまでなら改装して使っていいというものでした。そこは「変幻自在の43坪」、毎日のようにアート・音楽・演劇・舞踏・詩・映像、写真、時には初のフリーマーケットや、気功もあったりしました。私が手伝ったものには、喜納昌吉、田中泯、吉増剛造、水玉消防団、劇団青い鳥などなど、100を超える表現者たちとの出会いが、たくさんのことを私の心の底深く与えてくれました。

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現在のファクトリー近くに移転して、合計4年半の活動で解散、その後ベッシーホールや、本多小劇場など本格的なライブハウスや劇場ができ、私は映像にもどり、展示もできる映像のギャラリー「イメージ・ガレリオ」を、友人たちの出資で作ります。運営は、妻の中島ひろみが支配人で、多くの若いボランティアのみんなと一緒にビデオアートや、自主制作作品の上映、アート展などの「場」になり、ここが1986年から1992年の6年間。

現在のシアターキノの前身になりますが、私は「映画館のオーナーになりたくて人生を生きてきたつもりはありません」と今でも言っていますが、札幌に住むことを決めてからやってきたことは、「文化の場つくり」だと思います。そして、他のどなたかがやっていることなら、無理してやる必要はなく、その時に札幌にないものを、何とか形にすることをやってきたと思います。自分の役割は何かと考えて、文化のフィールドで自分のできることをやってきた、その積み重ねに他ならないと思います。

ガリレオ2ガリレオ

第一次シアターキノは、1992年、それまでにあったミニシアター的なプログラムをやってくれていた二つの映画館(4スクリーン)が時期を同じくしてやめることになり、大変な危機感を持ったのですが、さすがに映画館をやるのは簡単でなく、誰かもしくは企業がやってくれるのではないかと思っていましたが、その気配もなく、私の居場所であり、私を救ってくれた映画にお返しをする時だとの役割を感じました。まだ生計を立てていた居酒屋をスタッフに任せて、中島ひろみと一緒に福岡から順番に、全国のミニシアター巡りをして1週間後の戻った時に、私達の手で何とかしようと決意しました。そこで、まだNPO法案もなかった時代でしたので、株式会社にして一株10万円で出資を募り、103名で計1380万円を集めて、開設に至りました。今でいうと、クラウド・ファンディングのはしりのようなものだったかもしれません。この時からキノの仕事に専念するために、私自身の映像作家活動はやめることにしました、まあ、才能もなかったですしね(笑)。

一次キノ2一次キノ

そして、1998年に増資を呼びかけ、410名、資本金8000万の2スクリーン体制の本格的なミニシアターになり、現在に至ります。その後も、このシアターキノをベースに、NPO法人北海道コミュニティシネマ・札幌を、文化やまちつくりメンバー達と一緒に創り、そこで子ども映画制作ワークショップや映画講座など、様々のことをやってきました。それも私的に言えば、今の役割は何かなといったことを考えてのことだったと思います。

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ということで、やっと芸術祭に近くなってきました(笑)

長い前置きだったかもしれませんが、そのように、文化のことにはそれなりに関わってきましたが、正直なところ、お役所には関心はほとんどありませんでした。関わることになったのはやはり、上田さんが市長になったことが大きいと思います。上田さんはシアターキノの市民株主の一人でしたので(実は初めて立候補された03年の時は、市民株主での立候補がさらにお二人いて、どなたを応援すればいいか大変迷ってしまいました)、市長になられた時に、市民参加、市民自治を積極的に発信されており、孤軍奮闘させてはとの思いもあり、少しでも役所内部に参加して、発言した方がいいのではないかと思って、新まちつくり計画の公募委員に応募しました。幸いに採用されたので、その中で私なりに発言させていただいたりしましたが、言うだけでいいのだろうかとの思いが強くなり、自分でできることを提案してやっていこうと、少し積極的に動いたりすると、思いのほか市役所の方々は、いわゆる官僚的ではなく、なんとかしたいと思っている方が別の方を紹介してくれたりして、役所の方々と一緒にやっていくのも、素敵なことだなと(いつもではありませんが、笑)と思うようになり、文化芸術基本計画などでも公募委員に応募してみたりしました。このように私はこういった市役所の委員をすべて指名されたわけではなく、関心があったものに対して、自身から応募しています。助成申請もいろんなものに応募していますが、受託されたものの方がもちろん少ないです。役所側の発信が弱いとか、意見を聞いてもらえないといった意見もよく聞きますが、助成案内や公募委員などの募集は、広報さっぽろには、必ず出ていますし、公募委員になる機会はちゃんと保障されていて、門戸は開放されているのだと思います。もちろん、私もそういった気持ちにすぐになれたわけではありませんが、お役所にお任せして、待っているだけでは、当然変わりはしません。市民自治、市民参加はむつかしいことではなく、自分の住む街を少しでも楽しくしたい、面白くしたいと思うなら、まずは自分が動くことから始めたいと思っています。

やっと、芸術祭になります。長々とすみません。

私はACF(札幌芸術文化フォーラム)という団体に表現者の一人として参加していますが、札幌の文化政策に対して、積極的に提言などをしていて、今回のバンドメンバーの端さんが、札幌で国際的な芸術祭を開きたいとの夢を持っていることを知り、ACFのメンバーに話してみてはと提案して、芸術祭実現への市民活動をACFが中心になって始めたのが7~8年前でした。2011年4月には、市民による札幌プレビエンナーレ開催へと実りになって、その3年後の2014年についに札幌国際芸術祭実現に至りました。もちろん、これは上田市長の決断や、市役所内部でたくさんの議論をしていただいたり、調査をして準備をしていただいたことの結果であることは間違いありませんが、多くの市民の自主的な活動があった(さらにいえば、それまでの札幌における美術界の方々の様々の試みや、積み重ねた活動があったからこそ)からではないかと思うものです。

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さて、私が今回の芸術祭に関わるようになったワケですが、私は2014年の芸術祭でボランティアとして参加し、その中でアートカフェを提案して開催し、その面白さ、人との出会いの楽しさを満喫し、今回、大友さんがゲストディレクターになることが発表されてすぐに、ACFメンバーでもある今回のアドバイザー沼山さんを通して、大友さんに二つのお願いの長いメールをお送りさせてもらいました。

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その一つは、アートカフェにゲストとしてお招きして、市民とたくさんの話をする場を設けたいとのこと、もう一つは、新潟の「水と土の芸術祭」で体験した市民プロジェクトの素敵さを、これまたレポートしていろんな方にお伝えしていたので、このような市民が参加できるプロジェクトをぜひ企画の中に入れてほしいということでした。大友さんは忙しい中、律儀に遅れましたがと返信をしてくれ、私としては企画メンバーに入れてほしいといったことはお願いしていませんでしたが、そのあと大友さんから参加して一緒にやりましょうと、事務局からご連絡をいただいたということなのです。

私は、自分で言うのはおこがましいかもしれませんが、やはりまずは自分が動いてみることだと、改めて思います。

さて、バンドメンバーに入れていただいて、8か月、多士済々の素敵なメンバーに囲まれ、アートは好きでも専門家ではない私なりにいろんな提案をしては消えたりもしていますが、事務局の英断で市民プロジェクトが実現できたことは、本当にうれしく思っています。私自身、国内の芸術祭は、少しづつですが足を運んでいますが、このような市民プロジェクト企画は、まだ小さいかもしれませんが、画期的だと思っています。今回は採用されなかった企画にも素敵なものがたくさんあり、芸術祭やこれからの札幌の大きな文化的財産になることは間違いないと、私は思っています。

本当に長長文、最後までお読みいただき、感謝いたします。これからも素敵な芸術祭になるように、バンドメンバーの一人として楽しみながら頑張らせていただきますので、よろしくお願いいたします。

中島 洋
中島 洋
バンドメンバー
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